帝塚山周辺情報

歴史めぐりMAP

帝塚山には多くの有名な史跡があります。色々な史跡をご紹介します。

帝塚山

帝塚山とは、帝塚山古墳を中心に南海高野線と阪堺上町線の間に広がる邸宅街をさす地名で、 周辺には阿部野神社、安倍晴明神社、松虫塚など歴史深い数多くの史跡が残されています。 帝塚山は明治の中期から、上町台地の南西エリアに位置する高台景勝地として財界や著名人に好まれ、 以来大阪市内屈指の高級住宅地として歴史を刻み続けています。帝塚山の立地地形は、台地脊梁が西の 急斜面に移る高操な景勝地ですが、かつてはその水利難から甘藷やそばの畑が作られ、部分的には聖天坂の 植木市の影響を受けて苗木栽培も行われていました。

「阿倍野」地名の由来

「阿倍野」という地名の由来は、古代にこの地を領有していた豪族「阿倍氏」の姓からとする説が最も一般的です。 阿倍氏の先祖は考元天皇の皇子・大彦命で、一族からは阿倍倉梯麻呂・阿倍比羅夫・阿倍仲麻呂・阿倍晴明など、 多くの有名人が出ています。地名としての「あべの」は、時代によって「阿倍野」「安倍野」「阿部野」などが使われていました。 現在の「阿倍野」の字になったのは、昭和18年4月に、もとの住吉区が阿倍野区、住吉区、東住吉区の3区に分かれた時に、 区役所の土地の台帳が「阿倍野」を使用していたからです。

万代池

周囲約700mの池をとり囲むように公園として整備されており、春には桜が咲き、花見客で賑わいます。 池の中には3つの小島が浮かび、趣のある橋が架かっています。この池には古い言い伝えがあり、 聖徳太子が曼陀羅経を唱えて池に住む龍を退治したとことから曼陀羅池と呼ばれるようになり、 曼陀羅池がなまって万代池になったそうです。また、万代にわたり水が絶えないという伝承からも万代池と呼ばれているようです。

住吉大社

近畿でも有数の古い神社で、住吉造と呼ばれる本殿の 4 棟が国宝、大海神社や石舞台、南門、楽所が重要文化財に指定されています。 本殿の南側には御田植神事が行われる御田があり、池には太鼓橋と呼ばれる反橋がかかっています。 大阪に生まれた川端康成が「反橋」という作品に描いた橋で、その文学碑が橋を渡った右側にあります。

帝塚山古墳

4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳で、付近に大伴氏の館があった記録より大伴金村の墓といわれています。 本来の古墳の形をとどめたものとしては大阪市内唯一で、国の史跡に指定されています。町中の高台にあり、すぐ隣にまで民家が迫っています。

阿倍野晴明神社(阿倍野晴明生誕地)

平安時代に陰陽師として活躍した天文博士・安倍晴明の生誕地と伝えられ、没後2年の1007年(寛弘4年)に創建されました。 晴明の子孫と称する保田家が代々社家として奉仕してきましたが、幕末社家の没落とともに衰微し、明治時代には文政年間 (1818年~1830年)に堺の商人・神奈辺大道心が建立した「安倍晴明生誕地」の石碑と小祠のみであったといわれています。 現在の社殿は大正10年に保田家が旧社地を寄進して、大正14年に完成したものです。約180坪ほどの境内には大阪市の保存樹林が 植えられています。

聖天山古墳

この地は聖武天皇にゆかりがあり、古くは聖武帝山と呼ばれていました。聖天山古墳は正円寺境内にあり、石垣で囲まれ大きなクスが茂っています。 もとは直径数十メートル、高さ3mほどあったそうです。かつてあった天狗塚・柘榴塚といわれる小丘があり、土器・刀剣・馬具類が出土しています。 また「大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)」の門標の台石は、柘榴塚出土のもので、かつてこの近くに隠棲した兼好(けんこう)法師が使用した藁打石と伝えられています。

安部寺塔刹柱礎石

この礎石は、阿部寺という阿倍野区松崎町二丁目付近にあった奈良時代前期創建の寺にあったものです。旧高津邸に移された後、大阪市に寄付され、天下茶屋公園に置かれています。 花崗岩の礎石には中央柱穴があり、その中にはさらに舎利穴が掘られています。市内における、古代寺院の隆盛をしのばせる考古資料です。

佐藤魚丸墓所

魚丸は西区に生まれた商人でしたが、戯作者、浄瑠璃作者として江戸時代後期、寛政から文化年間(1789~1818ころ)にかけ戯作者、浄瑠璃作者として活躍した文人です。

松虫塚

松虫塚は小さい古墳であり色々な伝説がありますが、被葬者は判明していません。その内の一つを紹介すると、二人の親友が月の光さわやかな夜、 麗しい松虫の音をめでながら道遙するうち虫の音に聞きほれた一人が草むらに分け入ったまま草露に伏して死んでいたので残った友が泣く泣くここに埋葬したということです。

生根神社(奥の天神)

慶長5~6年(1600年ごろ)の建立と伝えられており、境内に天神社も併祭しているので、一般に「奥の天神」といって親しまれています。祭神は少彦名命。 江戸時代は住吉大社の摂社でしたが、明治5年分離した。本殿は淀君の寄進で、桧皮葺(ひわだぶき)・壱間社流造り(いっけんしゃながれづくり)の桃山時代の様式を残しています。

住吉神宮跡

天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758年)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていました。 神宮寺跡は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社のほとんどに設けられたと言われています。明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸しましたが、 そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存しています。今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものといわれています。

浅沢神社

住吉大社の境外末社で市杵島姫命ほかが祭られています。社の周囲に小さな堀をめぐらせ、名残りの「かきつばた」が植えられています。 奈良時代からこの付近は浅沢小野とよばれ、池沼も多く細江川が流れて「かきつばた」の名所でもありました。

荘厳浄土寺

創建年代は不明ですが、境内に残る礎石や出土瓦が、往時の盛大さを物語っています。当寺の不動明王立像・愛染明王坐像は、大阪府有形文化財に指定されています。 応徳(おうとく)元年( 1084年 )白河天皇の勅願寺となり、荘厳浄土寺の号を賜わりました。住吉行宮の後村上天皇は2度も行幸されています。

一休禅師牀菜庵跡

一休禅師牀菜庵跡は一休和尚(1394年~1481年)が、晩年仮棲したところです。一休和尚は文明元年(1469年)奈良から堺に来て、住吉に居住していました。 翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請しました。一休はここを雲門庵と体し、弟子と共に移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号しました。

阿部野神社

阿部野神社は 北畠親房・顕家を祭る神社で、 顕家公が足利軍と戦った古戦場にあり、明治15年、建武中興に尽力した功績により、阿部野神社として創立。明治23年鎮座祭が斎行され、別格官幣社に列せられました。

伝北畠顕家墓

太平記の中に登場する人物として南朝方の武将といえば楠木正成、新田義貞が挙げられますが、それ以外に北畠顕家も無くてはならない人物です。 石津川の合戦で足利尊氏に敗れた顕家らは阿倍野で壮絶な最期をとげました。その墓がある地は北畠と言われ、今では閑静な住宅地となっています。

阿倍王子神社

この神社はいざなぎの尊、いざなみの尊、すさのおの尊、ほんだつけの尊、の四柱を祭り、「阿倍王子権現縁起」によれば仁徳天皇による創建と伝えられていますが、 また一説には往古この地を本拠とした阿倍氏の創建とも言われています。平安朝時代より熊野詣が盛行するや、九十九王子の第二王子社として阿倍野王子等と称せられ、法王上皇、女院等をはじめ、一般参詣客の礼拝、休息等の用に充てられ殷賑を極めました。

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